テーマ「庄内藩の教育
~酒井家と致道館、そして黒川能~」
徳川家康を支えた四天王筆頭酒井忠次を祖とする酒井家3代忠勝が庄内入部以来、令和4年に400年の節目を迎え、今改めて庄内藩酒井家の事績が注目されています。
庄内藩による徂徠学に基づく致道館教育の「天性重視個性伸長」、「自学自習」、「会業(協働)の重視」は令和の日本型教育の「すべての子供達の可能性を引き出す、個別最適な学びと協働的な学び」に通ずるものがありました。
また、室町・鎌倉・江戸の時代、武藤家、酒井家の庇護のもと、黒川地区春日神社の氏子達に500有余年伝承されてきた庄内の伝統芸能「黒川能」は、国指定重要無形民俗文化財です。
この度の研修会では、退職校長会東田川支部会員であり黒川能下座太夫20世・黒川能の里「王祇会館」館長の上野由部氏の講演と仕舞、春日神社・黒川能の里「王祇会館」の施設見学を行いました。
Ⅰ 日時 令和5年9月15日(金) 13時開会
Ⅱ 会場 鶴岡市 黒川能の里「王祇会館」
鶴岡市黒川字宮の下253 TEL 0235-57-5310
Ⅲ 研修内容
1開会行事
(1)開会の挨拶 東田川副会長 池田幹夫
(2)山形県退職校長会会長の挨拶 県会長 鈴木弘康
(3)開催地区代表挨拶並びに講師紹介 東田川支部長 齋藤雅志
(4)閉会の挨拶 東田川副会長 池田幹夫
2施設見学
(1)春日神社の見学
春日神社のこちらが能舞台。向かって左側が上座、右側が下座。上座と下座は踊る内容も分けているし、住んでいるところも分かれている。後ろにあるのが神社の守り神。(一同礼拝)
都でもてはやされていた能が、なぜ黒川に来たのか、はっきりしたことはわからない。子どものころから3つの言い伝えがある。
1つは、清和天皇(858~876年)説。
2つは、後小松天皇(ごこまつてんのう1382~1392年)の3番目の子ども小川宮(おがわのみや)説。戦乱の世を逃げ回って、最後にたどり着いたのが、この黒川。お供の方が百姓に能を教え伝えたのが今に伝わる。
3つは、鎌倉時代から室町時代に庄内を納めていた武藤家の殿様説。東北を見守るという役目柄、時々都に帰った。その当時出来上がった能を庄内にも伝えようと師匠を連れてきて伝えた。
はっきりはしていないが、庄内はもともと寺や神社にかかわる芸能が盛んであった。就学前の子どもが行う「大地踏(だいちふみ)」は、庄内独自のもので能にはなく、今でも能の舞の前に行う。大地踏にはいろいろな意味がある。黒川には、難しい能が入ってきても、慣れて続け伝える、頑張れるという下地ができていたのであろう。
舞台へ。普通の能楽堂は周りから見られる形になっているが、黒川能は2月の王祇祭の時には雪もたくさん降るので、神社の真ん中に舞台がある。舞台の大きさは、観世流他と同じだが、黒川能のお祭りの関係で少し付け舞台がある。他と大きく違うのは、橋掛かりが両方にあるということ、その裏の楽屋も二つある。
向かって左側が上座。上座の方が普通の舞を行う。下座の方は全く反対の方向で舞うので、下座の方が大変である。この舞台の上の方にある肖像画は、上座・下座の能太夫、狂言の師匠の方たち。なんでも競争していた。この肖像画の額の大きさも、定型はなくそれぞれその時で違う。上座で舞う能の演目は上座だけ。下座で舞う能の演目は下座だけ。お互いに相手の能は舞ってはならないという決まりがある。例えば、下座の能をどこか別の場所で舞うとなれば、上座から大目付として番人が行くことになっている。
王祇祭は、2月、3月、5月、11月の4回行われるが、演者は1か月のお稽古をして祭りに備える。子どもたちも同じ。櫛引東小学校の子どもたちは、役者や氏子でなくとも全員能をお稽古している。中心になって教えているのが、下座の上野先生である。ここの人たちは、お稽古をしながら神様とつながり、合間を縫って仕事や農業をやっているので、年中忙しい。だから、昔から「黒川には嫁にやるな」と言われてきた。黒川の男衆は能や狂言ばかりやっていて、あまり稼がないと言われているからだ。今は逆だね。お嫁さんが強くなって、男たちは小さくなっている。今は、農業の後継者も少ない、仕事も忙しい中で、能を神様に奉納するということは大変になってきて様々な問題が起きている。能をやめる家、農業をやめる家が増えている。氏子は上座・下座で200軒ほどあるが、やめるか休むかという家もある。特に2月の王祇祭は、氏子の家を回る習わしがあり、その当家で一晩中徹夜で奉納する。大変なのでそれを休む家が出てきている。550年も続いてきたが、今後どうなっていくのか。この春日神社は、250年前に建て替えられたものである。
(2)王祇会館展示資料の見学
3講演
講師 黒川能下座太夫20世・黒川能の里「王祇会館」館長
上野由部 氏(元鶴岡市立第二中学校長)
演題「酒井家と黒川能」・公演「仕舞」
講師プロフィール(概略)…web致道ブログ2021/10/10より引用
〈講演〉
1 致道館について
昨年度、酒井家入部400年の事業の「歴史文化部会」で小学校高学年から中学生を対象に、誰もが読みやすいパンフレットづくりを行った。専門的になりすぎないように、酒井家の戦国後から明治の初期まで400年を誰もがわかりやすく歴史を学べるようにした。仕上げ前に校正を鶴岡南高校生徒にしてもらい、より分かりやすく手直しをした。これからの若い方々に、庄内・鶴岡の歴史を知ってもらいたい。興味のある先生にも配信している。各学校にも配っているが、ぜひこの冊子を使った出前講座をさせてもらいたい。教育委員会にもお願いをしている。現在、致道博物館で販売している。
致道館は、1805年、酒井家9代忠徳(ただあり)が創設した藩校。なぜ藩校を創ったかというと庄内の武士とか士族が退廃し始めていた。それを何とかしたい、庄内を一新していかなければならないと、藩政の振興を図るために藩校を創ったということである。忠徳は「被仰出書(おおせだされしょ)」をつくり、そこには教育とは何か、どういう風に教育を進めるのかということが細かく書かれている。教師向けに教育の目標は何かを説いた。「国家の御用に立つ人物、人情に達し特務を知る人物」の育成を目指し、まずは教える側をしっかりと押さえたのが致道館の役割だった。
文化13年(1816年)10代忠器(ただかた)が、鶴岡日吉城から鶴ケ丘城三の丸に藩校を移転した経緯がある。敷地が広く、15,000平方メートル。現存する建物の他に、神庫、養老堂、句読所、舎生の寄宿する本舎、武術稽古所、矢場や馬場もあった。致道館の教学をなぜ「徂徠学」としたのか。江戸幕府は徂徠学ではなく、朱子学を奨励していた。朱子学は礼を重んじ、情を大切にしていたが、政治学的な考え方としては荻生徂徠の考え方が長けていた。庄内藩における徂徠学の元祖は江戸でしっかり学んだ水野元朗(みすのげんろう)と疋田進修(ひきたしんしゅう)だが、その後を継いだ白井矢田大夫(しらいやだゆう)が寛政の藩政改革に大きな功績をあげたことから、酒井忠徳から祭酒(長)に任命され学制の長官になった。これが明治6年廃校になるまで、70年間続いた。致道館の教えを受けたのは、果たして武士だけだったのだろうか?町民、特に豪商の息子たちは少し教えをかじったのではないか?
致道館教育の特色は「天性重視個性伸長」「自学自習」「会業(かいぎょう)の重視」。生徒一人一人の生まれつきの個性に応じてその才能を伸ばすことを基本にしながら、知識を詰め込むことではなく、自ら考え学ぶ意識を高めることを重んじた。また、会業(かいぎょう)と呼ばれる小集団討議が中心だった。会業は、助教(じょきょう)を会頭とし、課題と期日を定めて研修の成果を個人ごとに発表し、互いに討論して疑問を明らかにしながら理解を深めようとする学習方法である。今でいうと課題解決型学習である。こういうことから見ても、徂徠学が非常に実践的であるということが言える。
学制は①句読所(くとうしょ=今の小学校)②終日詰(しゅうじつづめ=今の中学校)③外舎(がいしゃ=今の高等学校)④試舎生(ししゃせい=今の大学教養課程)⑤舎生(しゃせい=今の大学学部か大学院)の5段階に分かれ、年1~4回の学業検閲に合格すれば、年齢や修学年数に関係なく順次進級でき、個人が伸びやすい制度であった。
数え年10歳で入学できる句読所から30歳前後になる舎生まで合わせると、生徒の数は、350名くらいに達した。
明治になり、藩校が廃止されると、致道館は鶴岡県庁舎、鶴岡警察署、朝陽第一・第二尋常小学校などに使用されてきた経緯がある。
三島通庸は鬼の県令と呼ばれた。明治7年に鶴岡県・酒田県令になった時、「わっぱ騒動」が起きた。「わっぱ騒動」というのは、旧税法反対の農民運動である。税の取り立てが多いのではないかと主張。三島通庸はこれを静めるために大変苦労した。まず、税を取り立てた県首脳部をやめさせる。文句を言った農民は罰する。最終的には裁判をやりながら、取り立てたものを返すよう命じた。通庸は鬼県令といわれたが、やることは合理的で庶民にとってもマイナスにはならない施策を行った。「朝暘」という言葉も通庸が作った。最初にできた朝暘小学校の上から朝日が昇る美しい様子を見てこの言葉を用いた。
通庸は、庄内のものは本来の朱子学・徂徠学とは違うということを感じており、庄内独自の展開を見せて、庄内の風土・人間・生活に染み込んでいると捉えた。しかしこれは、明治の初期であり、まだまだ士族が中心だった。学制が敷かれることにより、教師として学校に入ったのが士族であった。この士族が教師として教育目標・教育方針に掲げたのが「天性重視個性伸長」「自学自習」「会業の重視」だったのである。解決型学習を行っていたのである。
実は、このことが生きていると感じたのは、私が鶴岡南高校に入学した時である。私は英語が苦手で、どうやったら英語が得意になるか悩んで、英語のリーディングリーダーに聞いてみた。するとその先生「うん、君ならできる。頑張りたまえ。」これしか言わない。数学の先生も同じ。鶴南の先生方は、本当に求めないと教えてくれなかった。その接し方に学生時代は憤慨していたのだが、卒業するまで学校をやめはしなかった。今思うと、庄内の教育としては適切なアドバイスだったのかなと思う。この教育方針は、今も鶴岡では至る所で生きている。明治になって、一般の人々にもこの教育方針、生き方、考え方が浸透してきたものと考える。400年もの間、新しいものではなく、この考え方が繰り返されているのだ。その手段として、何を使って我々が伝えていくか。最近の教育も随分変わってきている。英語教育だとかIT教育だとか。重要なのは、それをどう活用していくかということ。
テレビを見ていてもいいなあと思うのは、都会の学校、レベル的にもすでに上に行ってる学校。活用のされ方が大事になってきている。地方の公立小中学校の力をどうやって底上げしていくか、これからよほど専門性の高い教師をどんどん入れていかなければならない。
私も教頭になって、まだワープロを使っていたころ、校長が学校にパソコンを持ち込んだ。
校長は「使え。」というが使い方はさっぱりわからない。おまけに、パソコンの領収書は自分持ちだった。だが、今思うと、ありがたかったなあと思う。年を取ってからでもIT関係や機器関係に触らないでいたらだめだという意識はあるが、なかなか難しい。
今、子どもたちはその教えを活用している。孫も、タブレットなど持ち帰ってきて宿題をやっている。子どもたちは小学校低学年からやっていて、覚えるのも早い。それに爺さん婆さんが追い付いていかないと子どもにばかにされるので、必死で一緒にやっている。これも、致道館の教えのお世話になっているのかなと思う。
致道館を創り上げてきた酒井家の方々が、本当の見識があることによるものだったと思う。
2 酒井家について
400年にわたって治めてきた酒井の殿様が、庶民にどのように思われていたのかというのは、様々なところに出てくる。例えば、黒川能に限らず様々な民族芸能をするにも、教える人を呼んでやらせている。江戸時代には、決まった歌や踊りはそれほどない。1700年ごろ、お城の近くにやぐらを組んで盆踊りをするのだが、それをコンクールみたいにやらせている。
自分たちのグループの歌と踊りを披露し、次の年にはまた違う歌と踊りとなり競わせていた。毎年やらせていたものだから、庄内藩だけではなくていろいろなところから参加してきた。一時期には、それで殺人事件が起きた。さすがにそれからは、10数年間やめた経緯がある。
殿様は、温海から酒田のいろいろなところに行って、祭りの中の芸能をじっと見ていた。そこで何かしらのお言葉をかけていただき、庶民は喜ぶ。非常に慕われた殿様だった。
致道博物館に行くと、日本で最古のものだと言われているフナの魚拓がある。11代藩主酒井忠発(ただあき)が江戸の池で釣ったものと言われている。庄内浜と言えば磯釣りが盛んであ るがこれを武士道と捉えた人がいる。はたして釣りを武士道と捉えて殿様が奨励したかどうか。
色々調べてみると確かに「それもいいだろうね」とは言っているが、「釣れるまでの待ち時間を耐える力、いかにしたら釣れるか」という武士道的なとらえ方の例ではない。家来の一人が、ばあっと広げたことから庄内の磯釣りは武士道とつながっているとされたようだ。殿様は娯楽的な捉え方をしていて、家来が「釣りに行ってきます」というと、「岩から落ちぬよう気をつけろよ。」などと声をかけたようだ。決して人々を優しく扱う殿様ではなかったが、庶民にとっては嫌がられない殿様であった。
だからこそ、1840年第10代酒井忠器(ただかた)らに出された「三方領知替え」の時に、農民が固まって江戸まで行って嘆願するとか、明治になって鳥羽伏見の時も負けているけれども、この殿様を庄内においてくれと農民が東京まで行って嘆願するとかということになった。昨年いらした大学の先生方も、そんなことは普通あり得ないことであり、珍しいことだと話していた。酒井家とともに江戸時代を過ごしてきたこの庄内の独特の文化は、そうしてつながってきたのだろうと思う。
3 黒川能について
続いて、黒川能についてだが、この黒川能の役者たちも大変な頑固者が多い。非常に自己主張が強い。私もそうだが。負けていられないのである。なぜそうなるかというと、黒川能は神に捧げる能だからである。神様にお見せする能であって、人様に見せるものではない。そこで江戸時代の能楽師らは、武士によって内容から舞い方まで変わってくる。武士が好むように変化した。
これが一番変化するのは秀吉のころ。まず着物。江戸に入る前の安土・桃山時代から能の衣装は非常にきらびやかになった。そのころ一番人気があったのは、商人も宮中も好んだ「辻が花」という衣装で柄物の小袖である。武士たちの好みには、これはいい、うまい、というものがあった。エピソードとして残っているのは、「金札(きんさつ)」という能で弓を射る場面があるのだが、正面に向けてその弓を間違えて撃ってしまい、殿様の脇をすり抜けたため、そこで打ち首になってしまったこと。
もう一つは、酒井忠勝も能をやっていた。江戸城でも舞っている。1603年に家康が能を好んだことから「武家式楽」とし、茶会の時に能を舞ったり、お正月の謡はじめをみんなで行ったり、形式化していった。その中で能役者も重要になり囲うようになった。ただ、一つの舞台をやるには30人~40人の能役者が必要になる。一番大きく囲ったのは、加賀藩である。加賀藩は「宝生流(ほうしょうりゅう)」を囲い、今でも加賀藩は「宝生流」をやっている。家康は「観世流」。京都には「金剛流」。金剛流は幕府とは関係なく、宮中と結びついており、そこで生きている。奈良は「金春流(こんぱるりゅう)」興福寺や春日若宮と深い関りがある。あとは「喜多流」。金剛流より若い流派だったが、2代将軍秀忠が認めたものである。
実は1,300年頃から能は観阿弥・世阿弥によって生まれたのだが、そもそもは大同芸人としてやっていたもの。寺や神社で催し物があると、呼ばれて舞っていた。足利義光から見染められて将軍家の方に引き込まれた。そこから能が始まる。秀吉の時代に服装などががらりと変わった。能が出始めのころは、百いくつもの演目があった。それを全部さばいて40にしたのが秀吉である。そして5流になったのが、江戸の初期。現在も5流で行われている。
黒川能がいつから始まったかは、はっきりしていないが、黒川能は私たちが今着ている着物の紋、武藤家の「六つ目結の紋」を、春日神社を中心に大事にしてきている。この武藤家というのは1189年あたりに庄内の地頭になるも、5代目から庄内に入ってくる。その間の歴史はよくわからない。やっとわかってきたのが1462年第11代大宝寺淳氏(きようじ)が出羽守に任ぜられ、翌年上洛し将軍足利義政に謁見した。ちょうどその頃は、能がものすごく盛んに行われていた。庄内と能の接触を考えた時に、この時点しか考えられない。これ以前もなければ、これ以後もない。なぜかというとそれから4~5年経つと応仁の乱が始まる。応仁の乱が始まると、文化の伝承どころではなくなるからだ。黒川に能が伝わったのは、どうもこのころ1400年の後半ではないかと考えられる。学者の方々も1500年には能が定着していたと言っている。
もう一つの疑問は、この能というものを素人の農民がすぐにできるかということ。謡の長さもあるし、舞の技術も必要だ。こんなことが黒川の百姓がやれと言われてもやれるわけがない。そこに出てくるのが王祇祭で行われる「所仏則の翁(ところぶっそくのおきな)」と「大地踏」の2つ。着衣は明の時代に伝わったものであまり重要ではないと考える。「所仏則の翁」については、鎌倉時代に流行った「翁猿楽(おきなさるがく)」と関係がある。「翁猿楽」は平安時代の延年の舞とつながっている。また、「大地踏」のことばの中に、「とうべんがくつくすとも、のう(なお)さるがくはつくすまじ」という言葉がある。猿楽はずっと続けていこうということである。とうべんがくというのは、岐阜県白川神社でやっと見つけたが、謡いあり、楽器あり、問答あり、もちろん舞いあり。そういうものがあったとすれば、能が入ってきてもそういうものを消化する能力が黒川にはあったと考えられる。そういった中で武藤家とつながりながら来たのだろう。ただし、戦国時代に廃れた歴史もある。
江戸時代1689年、酒井家(6代忠真ただざね)からお城で上覧能(将軍宣下や婚礼、嫡子誕生などの慶賀の場で催される能を町人たちとともに鑑賞すること)をやってくれないかと言われ、受けるかどうかを黒川の人たちはすごく悩んだそうだ。能をやれるけれども、舞えるのは10曲位。狂言を行えるのは誰もいない。着物もほとんどない。私の先祖の下座の大夫もはく袴もない。そんな状況だった。そのことを正直に酒井家に話した。なぜそんなに廃れたかというと、歴史家の本郷先生によれば「戦国時代は当たり前。みんな戦いに行くし、田んぼや畑はぐちゃぐちゃにされたんだから。」ということだった。酒井の殿様は「何が足りないんだ?述べてみろ。用意できるものは、こちらで準備する。鶴岡の町中では狂言がはやっているから、彼らにやらせれば大丈夫だ。」と話してくださった。1650年あたり、江戸から狂言師が入ってきていた。町民がそれを受けて学んでいて、お金持ちの人たちで楽しんでいた。そのころ鶴岡の城下にはすでに狂言が根付いていたのだ。1690年、藩主酒井忠真は上洛する。上洛を行ったころから黒川能の発展につながる。
なぜ、酒井家は能を要請したのだろうか。これから詳しく調べなければならないが、そこには、酒井吉之丞(玄蕃)(げんば)家の初代了次(のりつぐ)が関係している。了次は、そのころすでに庄内藩主だった忠勝の弟(家次の五男)だが、その頃は江戸にいた。兄弟に忠勝の良くないところを植え付けられ、乗せられていき、実直だった了次は真に受けて忠勝に直接ぶつけた。「お前、何を言ってるんだ!」と忠勝から怒られて、「お前、京都の所司代の方で働いてこい。」と言われた。そこで働くも、いやになって江戸にもどったが、幽閉されてしまった。閉じ込められているのも嫌になり、飛び出して江戸の町民の家で生活した。それを見つけた忠勝の大きな怒りに触れてしまい、黒川に連れてこられて大庄屋のうちに幽閉されてしまった。1635年頃である。その時に了次は、能を楽しんだり、自分も鼓を打ったりしていたようだ。この時の縁が「黒川能っていいよ!」となり、酒井の殿様が抱えた能楽師を江戸からわざわざ呼び寄せて、黒川に視察に来させた。黒川能を見て「まあ、いいのではないか。」ということで、上覧能が始まった。
上覧能が始まってから正式には10回なのだが、非公開的なもので老中や家老の家で舞い、そこに殿様も来たということも何回かある。黒川能にとって有難かったのは、上覧能に行く度に色々なものをいただいたこと。米百石も、装束も、能面など能に使ういろいろなものをいただいたのである。何代目かの時には、幽閉された大庄屋の隣に蔵を立てて、そこに大切にしまっておいた。それが明治になり、私が生まれた頃もまだあった。そこから装束を出して使っていたわけである。小さいころまではそうだったが、ある時に上座と下座に分けて、自分たちで管理をした。それで、黒川能の役者たちは舞台がとてもやりやすくなった、と同時に地域に広がっていった。上覧能の時には武士だけでなく、町人や農民も呼んで見せたからである。
そこでできてきたのが開帳能という能のやり方。イベント会社(興行主)から声がかかるようになり、最初にやったのが1705年。鶴岡でやったのは21日間にもなる。御開帳、つまり宝物を並べてお見せしてから能を見てもらうというやり方である。それで興行主に入ったお金が約50両。その半分の25両が黒川に入った。しかしそのうち10両ぐらいは寺社奉行に、あとの15両は神社と上座、下座で分ける。下座で受け取った大夫は、下座の氏子たちに分ける。米も同じように分けた。それが何代も続いてきた。
開帳の時もそうだが、自分たちで金儲けを始めたのが、1700年以降である。サシ囃子とか座囃子という形で能をやるようになった。座囃子というのは、これからお見せする仕舞と楽器を使い、装束をつけずに着物を着てやるもの。サシ囃子というのは、能には1セットごとに名前がついているが、謡のサシの部分から始める演能。いわば金儲けなのだが、1700年以降、黒川能はセミプロ的なことをやっている。だから、江戸の後期あたりからこんな言葉を言われている。「黒川に嫁はやるな。黒川から婿はとるな。」なぜか。セミプロだから、役者たちは百姓をやらなくなる。毎日、謡をうたっている。そうすると、外で働くのは皆女性になる。その役者を婿にとったら、仕事をしない。そういう話が広がって、「黒川に嫁はやるな。黒川から婿はとるな。」となった。最近は、別の意味でその言葉が使われている。王祇祭の時の当家は1回やるのに200~300万円ほどかかる。親戚になるとお包みをたくさんやらなければならなくなる。
大変お金がかかって苦労する。ただ、コロナのおかげで、祭りのやり方も随分変わってきたところがある。これも一つのいい機会だろうなと思う。
話は飛ぶが、この酒井玄蕃とのつながりの中で、黒川能は酒井の殿様にもつながっていったのだろう。それが明治になって、非常に驚くべきことがあった。この玄蕃家の最後の11代了恒(のりつね)は「鬼玄蕃(おにげんば)」と呼ばれ、非常に武術に優れていた。北海道の五稜郭の戦いにも参加している。負けたことがないと言われている。しかし、明治2年5月、戊辰戦争で敗れる。その年の7月に、了恒は春日神社に、物凄い量の武具、甲冑を奉納する。今も、それがある。通常の甲冑は10数領あり、軽い足軽甲冑は40領くらいある。それに合わせて、弓、矢、武具、戦場にもっていく徳利、器など、それがすべてある。その中に、1領だけ全部そろった甲冑が見つかった。今、修復した方がいいということで、補助金も含めて、市の方と話をしている。できれば来年実現させたい。これはいいものだということで、調査もしている。量が多いので、まだ調査は終わっておらず、数年かかると思う。
そんな中で、黒川能はやはり酒井家のおかげで存続してきたと言える。それから、黒川地域は災害に強い。水害もなければ、本当に穏やかなところである。農作物と言えば米が主流になるが、江戸時代から見ても、黒川、羽黒、藤島を並べてみると、黒川の収穫量が一番多い。面積からすると羽黒、藤島の方が広いのだが、羽黒地域は山の下の方、湿地帯であると同時に、あの辺り広瀬と呼ばれるあたりは戦場地だった。湿地帯なので上に登っていくと、田んぼの面積は小さくなってしまう。藤島も湿地帯である。川の氾濫すごい。そういう意味で、黒川は非常に恵まれている。災害の少なさと酒井家のおかげでずっと存続できてきた。
しかし、コロナ禍の中では、全然能ができなかった。上座・下座に分かれて役者が70人近くいるのだが、その座を運営するのに年間最低でも300万円かかる。その300万円をすべて座員(氏子)に求めることはできない。座員から集めるのは、1万円ほど。今下座の座員は100を切ってしまった。上座は、80を切っている。戸数がどんどん減っている。下座の場合、100万円で、あとの200万円はどうするかというと、外に行って公演をしてお金をもらい、それを座の運営費に充てる。それでも、ギリギリである。だから、今この王祇会館を中心にして能を継承していくために、皆一生懸命である。江戸時代は酒井家という大きなパトロンがいた。明治になるとそれがなくなり、外で講演をやっていただいたものを資本としていた。第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、昭和30年頃になって初めて行政が動き始め、行政からの手助けがいただけるようになった。でも、年間300万円、上座と下座で600万円必要なので、400万円はマイナス。そこをマイナスにならないように、我々も頑張っていかなければならないと思っている。
最後に、舞をご覧いただきたいと思う。
ーー 仕 舞 ーー
<謝 辞> 山形県退職校長会会長 鈴木弘康
私も実は、上野先生の最後の公演を見て、しびれた。声を聞きながら、体の動きを見て私にはまったくない動きである。本当にありがとうございました。今日は「被仰出書(おおせいだされしょ)」という、藩校の致道館の学びについてお話しいただいた。自分のいいところを見つけなさいというのが最初にあって、次には自学自習。私は理科教員なので、自学自習で大切なのは、自由研究だと思っているのだが、最近の先生方はあまり自由研究を重視しないのだそうだ。次は、みんなで話し合って課題解決しようということ、なんとこれが江戸時代にあったのだ。課題解決学習について私は、ずっと最近になって始まったのかなと思っていたのだが、違っていた。致道館で行っていたのだ。すごいことだなあと感心した。
私の中で、学びをこのようにつないできたという例あげると、鶴岡朝暘三小に三浦愼士先生が十数年前いた。「おれ、いいことやってるんだ。」と言われ、江戸しぐさをもとに、朝暘三小では「三暘しぐさ」をやっているとお話しいただいた。そのことと、十数年たった、今日お話しいただいたことが結びついていたのだなと感じた。特に今でも思い出すのは、朝暘三小の子どもたちが合言葉を創るのだが、廊下を静かに歩く「そろそ廊下」、電気を「こまめ消し」など三暘しぐさとして集めている。このことは、2013年、文科省の審議会の中に今でもインターネットで出てくる。私たちがこれから何をやっていくかを考えた時に、今やっている三暘しぐさと致道館の教育が結びついているのだということを、多分今の校長先生方は感じていないだろうから、このような話題が出た時に少しでも話に出して欲しい。
もう一つ悔しいのが、最上家は57万石も取っておきながら、なぜ文化のためにお金を投げ出してくれなかったのかなと思う。酒井家はすごい。私は今日びっくりした。やっぱり、葵の紋は違うのかなあとちょっと悔しい思いもした。
ぜひ、上野先生からはもっともっと頑張っていただいて、ここから全国に発信することができるように、それを期待しながらお礼の言葉とする。
4閉会行事
(1)開会の挨拶 東田川副会長 尾﨑 稔
(2)次期開催地区代表挨拶 山形支部代表 佐藤政士
第41回山形県退職校長会東田川大会、非常に素晴らしかった。来年どうしようかという気持ちでいる。先ほど、上野先生から教育は繰り返されているというお話があったが、来年度の内容については昔のお話からはちょっとはずれて、現代の「探求科」「探求型授業」について研修しようと思っている。講師として、現在山形東高等学校の校長である須貝英彦氏をお願いしている。山形東高等学校で行われている「探求科」「探求型授業」の内容、さらに「その成果はどうであったか」などをお話しいただきたいと思っている。
場所は山形市立商業高等学校。新しい校舎であり、もうそろそろ全部出来上がるそうだ。素晴らしいサッカーコートや、施設等全体を見せていただきたいと思っている。併せて、時期的に合えば山商産業調査ガールズといって、高校生が市内の老舗など様々なことを調べたりしながら、自分たちがやりたいテーマを設定して発表している部活動がある。県大会、東北大会、全国大会にも行っている。時期が合えばではあるが、一緒に研修していただきたい。
来年度の研修の日程は、9月17日(火)、今年度と同じような時間を予定している。今日が大変すばらしい研修会だったものだから、山形には行かなくていいとならないように、一生懸命準備しているので、ぜひ、ご参会いただけるようよろしくお願いしたい。
(3)県本部より諸連絡
①村山良光幹事長
②室岡幹事
(4)閉会の挨拶 東田川副会長 尾﨑 稔
施設見学の様子を動画でご覧いただけます。
(1)春日神社の見学
(2)王祇会館展示資料の見学
講師
黒川能下座太夫20世・黒川能の里「王祇会館」館長
上野由部 氏(元鶴岡市立第二中学校長)
演題「酒井家と黒川能」・公演「仕舞」
0:00 講演開始 致道館教育について
0:35 黒川能の諸相
1:17 公演「仕舞」
1:33 謝辞